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【田中マルクス闘莉王】名古屋に電撃復帰した熱き大和魂の男のキャリア

 2016/09/16 パーソン この記事は約 14 分で読めます。

2016年シーズン、小倉隆史監督兼GMで新たな船出を果たした名古屋グランパスは、19試合勝ち星なしで降格争いに巻き込まれていました。

1度も降格を経験したことのないオリジナル10のクラブは、ついに小倉監督を解任。

グランパスの栄光を知るボシュコ・ジュロヴスキーを監督に据えると同時に、レッズやグランパスをリーグ優勝に導き、2010年南アフリカW杯でベスト16の大きな原動力となった田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)をブラジルから呼び寄せました。

そして、同じ降格争いのライバルである新潟に勝利し、新潟を残留争いに引きずりこむことに成功しましたね。

半年以上も実戦から離れていたにもかかわらず、19試合ぶりの勝利でチームの流れを大きく変えた闘莉王。

彼は、サッカー選手としてこれまでどんなキャリアを積んできたのか、調べてみることにしました!!

キャッチアップ画像/Photo credit: The 2-Belo via Visual hunt / CC BY-NC-ND

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渋谷幕張高校から道を切り開いてきた闘莉王

闘莉王は、元々日系3世としてブラジルのパルメイラ・ド・オエステというサンパウロ市の北西約650キロ離れた、人口約1万人の片田舎で生まれ、育ちました。

なので、おじいさんとおばあさんは、ともに生粋の日本人なわけですね。

会計事務所で働きながら夜間中学を卒業したトゥーリオは、地元の高校に通いつつ、サッカーのプロになることを目指し、パルメイラ・ド・オエステから150キロほど離れたミラソウという街のミラソウFCのユースチームに所属していたそうです。

そこで、98年1月に運命の出会いをします。

トゥーリオがまだ16歳9ヶ月の頃だったそうです。

スカウトに来ていた渋谷幕張高校サッカー監督であり、同じ日系人の宗像マルコス望さんと出会います。

渋谷幕張高校では、毎年現有戦力で不足しているポジションをブラジルで探すという方針があり、ちょうどその年はディフェンダーを探していたそうなんですね。

とはいえ、ただサッカーができればいいというわけではなく、日本という遠い異国で教育を受けながら、家族から離れるという孤独にも耐えた上で、サッカーにも取り組める選手でないと務まらない。

それはそれは、そんな選手を探し出すことはとても容易ではないと想像します。

なので、宗像マルコス望さんがトゥーリオと出会ったのも、すでに400人を見終わった、セレクションも終盤の時だったそうです。

それまで決め手のある選手とは出会えていなかったようで、友人から連絡をもらい、ミラソウFCに「日本人か、ブラジル人かわからない子がいる」と言われ、訪れたんですね。

そこで、マルコスさんは、トゥーリオをひと目見て気に入ったのだとか。

そのときに、トゥーリオはマルコスさんからこのように言われたそうです。

「日本の高校でサッカーをやってみないか。日本の教育を受けながらサッカーをするんだ。日本にはJリーグというプロリーグもあるから、うまくいけばプロにもなれる。ポジションはディフェンスをやってもらいたい。ただ、時間がない。3日間で決めてくれ。両親や家族が留学を認めてくれることが条件だ」

16歳の高校生がたった3日で決めてくれ、と言われたそうです・・・

マルコス先生も時間がなかったとはいえ、むちゃくちゃでしたね(笑)

 

それでも、猛反対する母親の存在を痛いほど感じながらも、闘莉王は最後は自分で決めたそうです。

当時の心境をこのように闘莉王はこう語っています。

「マルコス先生に言われた最初から日本に来ることを決心していました。こういうのは人生に一回しかない。それを逃したらもうチャンスはない。チャンスというのはそういうものなんです。新しいことに挑戦できるチャンスが来た。そう思いましたね。

それに、一人で日本に行くことは、大人になれるきっかけでもある。小さい頃からお父さんには、『やりたけりゃ、自分でやれ。遊びたかったら自分で働いてお金を稼げ。お金がほしいなら自分で稼ぐんだ』とずっと言われていた。

日本行きの話が来たとき、これこそいいきっかけだと思ったのです。お母さんはかわいそうだったけど、これからは自分で自分の人生を歩んでいくしかない。自分にとっては本当にありがたい話でした。

日本行きを決意した16歳のやせっぽちの青年は、マルコス先生と出会ってわずか2ヶ月後の98年3月27日に遠い異国の地にやってきたんですね。

日本語がまったくわからずにやってきたトゥーリオは、最初の1年はコミュニケーションを取ることが出来ず、苦労が耐えなかったということです。

また、彼が留学した高校は、東大生も輩出する有名な進学校であっても、それほどサッカーの強豪校ではなかったんですね。

だいたい千葉県でベスト8前後をいったりきたりするような学校だったようです。

ベスト8とかベスト4のチームって、だいたい上手い選手が1人2人いて、そういう選手がチームを引っ張るみたいなイメージじゃないのかなぁ、という気がします。

家族もおらず、十分とはいえない環境の中で、彼はサッカーに打ち込むことで、前に進むしかなかったのではないでしょうか。

トゥーリオも簡単に物事を諦めるような人ではないし、父親もとても厳しい人だと本人も言っているように、日本での生活が厳しいという理由で、おめおめとブラジルに帰ることを許すような人ではなかったのかもしれません。

そんな中で、トゥーリオは結果を出すことで、自身の道を作ってきました。

国体の千葉県代表に選出され全国優勝を果たしました。また、第79回高校サッカー選手権大会の千葉県大会決勝では、自身のFKで初の全国大会の切符を掴みとりました。

過去に高校サッカー選手権に出場したことのある現役Jリーガーが、「後輩たち」にメッセージを送る役回りの、応援リーダーとして第89回大会で、闘莉王は、高校時代をこのように振り返っています。

高校時代、うれしさよりつらさの方が多かったように思います。ブラジルという地球の反対側から来て、文化の違いもありましたし、言葉の壁というのが自分の中でも最もつらかったんじゃないかと思います。

それがなかったら、今自分はここまで来てないと思いますし、いろんな厳しさつらさを乗り越えたからこそ、どんな困難にぶつかっても乗り越えられるようなパワーを、その3年間で自分の身に付けたと思っています。

引用:ザテレビジョン

そんなトゥーリオのもとには、いくつかのJリーグチームからのオファーが舞い込んだんですね。

その中で、選んだのはサンフレッチェ広島。

祖父の出身地が広島だったこと、自身のルーツがそこから始まったことと、もちろん関係してのことだと言われているようです。

ただ、この時はまだ、外国人選手として、プロ生活をスタートさせることになります。

外国籍の壁に阻まれ、サンフレッチェ広島をあとにする

2001年にサンフレッチェ広島に入団します。

1年目から17試合に出場。2年目も22試合に出場している。

高卒ルーキーですから、出場数としてはそこそこの数字ではないでしょうか?

しかも、トゥーリオは、「最初の試合に強い」と自認しているように、ここ一番という場面での「運の強さ」も持ち合わせています。

広島でのデビューは、2001年のファーストステージの開幕戦の鹿島戦。

DFのポポヴィッチが開始早々怪我をしてしまい、広島のヴァレリー監督にいきなり呼ばれていきなり出場の機会を得ます。

そして、出場して数分後には、豪快なヘディングシュートでいきなり先制ゴールを挙げる。

最終的に試合には、逆転負けを喫したが、新人選手ながらインパクトを残したんですね。

ただ、その後は、思うように活躍することができなくなってしまいます。

 

主力の復帰したり、出場しても致命的なミスや監督の期待に答えることができなくなってしまいました。

徐々にトゥーリオの活躍の場所はなくなってしまっていました。

そして、彼はまだ日本国籍を持つ日系人ではなかったんです。

トゥーリオは、日系ブラジル人であり、外国籍の選手だったわけですね。

そのため3年目となる2003年シーズンは、外国人枠から外れてしまい、出場する機会を失ってしまいます。

そんな中で、広島から水戸にお願いをする形で、J2の水戸ホーリーホックへレンタル移籍を果たしました。

トゥーリオが、この水戸で飛躍できたのは、間違いなく前田秀樹監督の存在があると思います!

前田監督は、トゥーリオを「厄介者」とは考えなかったんですね。

ともすると、闘莉王は、味方を怒鳴り散らしたり、意見をしたり、和を乱す存在として見えてしまう恐れがあります。

しかし、前田監督は、その危険はあっても、トゥーリオの個性を組織にとってどう組み込むことが、チームにとってベストなのか、という考えができるリベラルな考え方だった。

トゥーリオの飛躍は、水戸の1年があったこそ、浦和へのステップがあったことを考えると、前田監督との出会いということも、トゥーリオの持つ「運の強さ」だったのかもしれない。

そんな気がします。

 

私もトゥーリオを初めて見て知ったのは、この水戸時代ですね。

当時は、髪が金髪に近い色だった記憶があります。特にDFなのに攻撃力がある選手という印象が強く残っています。

DFでありながら、チーム得点王となる10点を叩きだしたわけですからね。

普通、日本人で10点取る選手ってほとんどいないですよねー?

水戸で大車輪の活躍を見せながら、闘莉王は、祖国日本への帰化を果たします。

田中マルクス闘莉王、が誕生したのです。

「代表入りして、日本に恩返しがしたかった」

闘莉王の帰化への動機だったようですね。闘莉王22歳の時でした。

浦和レッズへの移籍と飛躍

2004年には浦和レッズの監督に就任したギド・ブッフバルトに誘われる形で、浦和レッズに完全移籍しました。

点も取れる守備のリーダーとして、存在感を発揮。

すぐに五輪代表にも招集されるようになり、闘莉王が五輪代表にとっても欠かせない選手であることに何の疑いもありませんでした。

試合を見れば、闘莉王がいるかいないかで、ディフェンスラインの存在感というのは、一目瞭然だったからです。

アテネ五輪の予選3試合にすべて出場した。残念ながらグループステージを突破することは出来なかったが、闘莉王にとっては、初めての「世界」との対峙になった五輪でしたね。

五輪が終わった後は、浦和レッズで活躍を見せて、2004年はステージ優勝に貢献。

2006年には、浦和の初のリーグ制覇の大きな原動力となった。自身もリーグのMVPを活躍。

翌年の2007年には、リーグ連覇とは至らなかったものの、AFCアジアチャンピオンズリーグで優勝、FIFAクラブワールドカップで3位という華々しい結果の一役を担った。

結局、浦和レッズには2009年まで在籍し、6年間浦和レッズの最終ラインの守備のリーダーとしてだけではなく、時には点も取れるDFとして、攻守にわたって存在感を示してくれましたね。

ただ、浦和レッズの優勝は、闘莉王の存在が大きく影響していることは間違いない、と同時に、自分を浦和レッズに読んでくれたギド・ブッフバルト監督の退任以後、クラブの方針に批判をしたりと、良くも悪くも目立った言動があったのかもしれません。

浦和のサポーターからすると、きっと批判的にならざるを得ないようなことがあったのかもしれません。

浦和での居場所がなくなった闘莉王を一番必要としてくれたのは、名古屋グランパスだったんですね。

名古屋グランパスの初優勝と南アフリカワールドカップ

ストイコビッチ監督から、「ワールドカップに出場するなら日本のクラブに残ったほうがいい」とアドバイスされた闘莉王は、最も熱心に必要としてくれたという名古屋グランパスに移籍することなったんですねー。

南アフリカワールドカップイヤーである、2010年でした。

もちろん、南アフリカワールドカップでの活躍はまだ記憶に新しいところでしょう。2002年の日本開催以外で、初めてとなるベスト16進出の大きな原動力になりましたからね!

中澤と闘莉王のセンターバックのコンビは、いまだに歴代最強だったのではないか、と個人的に思っているくらいです。

本来ならば、06年のドイツ大会にも闘莉王がいれば、もしかすると、違う結果になっていたかもしれません。

そう想像したくなってしまう何かを、闘莉王は持っている選手ですね。

 

話が逸れました!!

名古屋グランパスで初年度となる2010年シーズン、名古屋はリーグ序盤戦から上位の位置につけ、好調な滑り出しを見せます。

第18節の浦和戦で勝利し、清水を抜いて首位に躍り出ると、その後は、1度も順位を下げることなく、最終的には勝点72で2位のガンバ大阪に勝点10差をつけて、見事優勝を飾りました。

この時の名古屋のバックラインのセンターバックが、闘莉王(185センチ)と増川(191センチ)という屈強な2枚のコンビで、この2人も圧倒的な存在感を見せてくれてましたね。

最終的に名古屋には、2010年~2015年シーズンまでの6年間在籍したことになります。

名古屋では、1度の優勝、1度の準優勝しています。

在籍した期間の中では、2010年と2011年のシーズンが一番成績が良かったと思います。

2014年からはガンバ大阪を強豪チームに育てた西野朗監督を招聘しましたけど、あまりうまくいかず、結局2年で退任となりました。

そして、2016年に名古屋グランパスは、大きな舵を取ることになります。

監督経験のない小倉隆史監督を、ジェネラルマネージャー兼監督という2つのポストに就任させ、名古屋を改革しようとしました。

そこで闘莉王は、大幅な年俸減を提示され、契約の締結に至らなかったのです。

J3のガイナーレ鳥取からのオファーがあったものの、日本にまた戻ることを約束し、ついにブラジルに戻っていきました。

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迷走した2016年の名古屋グランパス

5人目までが絡む連動性の高いフットボールを標榜した小倉監督でしたが、序盤戦は連動した動きは少し見られたものの、勝利から遠ざかってしまい結果もついてこないと、理想を負い続けることが精神的にも難しくなってくるものだと言われています。

ファーストステージはまだ良かったものの、セカンドステージに入ると、点は取れないどころか、セカンドが最下位に沈んでしまいました。

名古屋の社長も小倉監督の首はないと公言していましたが、さすがにJ2も降格はしたくはなかったのでしょう。

おそらく小倉監督の解任を見込んで、2010年の名古屋のリーグ優勝を知るボシュコ・ジュロヴスキーをコーチに呼び寄せます。

そして、連続未勝利試合数が「17」と降格圏内に沈み続ける名古屋は、小倉監督を実質解任にあたる「休業」扱いにしました。

そして、ボシュコ・ジュロヴスキーがコーチから監督にそのままスライドした後、チームにはリーダーシップが必要と判断したのか、絶対的なリーダーシップを発揮する男をブラジルから急遽呼び寄せました。

「闘莉王が名古屋に電撃復帰!!」

こんな活字がメディアを賑わせました。

いやー、まさかこのタイミングで闘莉王がJリーグに、そして、名古屋に復帰するとは!

チームには、やはりこの闘う男が、必要だったんですよね!

そして、迎えた第28節。同じ降格圏内のライバルである新潟とのアウェー戦。

「Dead or Alive」

名古屋のサポーターの横断幕に示されていた通り、まさに生きるか死ぬかの戦いが始まった。

実戦からすでに10ヶ月近く離れていた闘莉王のパフォーマンスには、キレはなかった。

しかし、最終ラインのボスとして鼓舞する姿は、やはり風格があり、闘莉王にしか出せないオーラを発していた。

きっとGKの楢崎にとっては、久しぶりに感じた頼もしさだったのではないだろうか。

前半に挙げた川又のゴールを守り抜き、1-0で勝利。

あれだけ勝てなかった名古屋は、ジュロヴスキー監督就任と闘莉王復帰という劇薬によって、息を吹き替えした。

残り6試合。

奇跡は起こせるのだろうか。

19試合ぶりの勝利という結果はもちろんのこと、「初めての試合に強い」と自認する闘莉王の言う通り、自身にとっての2016年シーズンの最初の試合で、見事勝利をたぐり寄せた。

改めて、この男の存在感の大きさを感じた。

艱難辛苦を乗り越えた移民の3世として日本にやってきた16歳の青年は、35歳になるまでの約20年、普通のJリーガーとは比べ物にならないほど、大きなものを背負って生きてきたような気がする。

「地獄だった」高校時代を人知れず乗り越えてきた闘莉王にとっては、遠いブラジルの地にいる家族や友人たちに頑張っている姿や成長している姿を見せ続けることが、何より誇らしかったのではないだろうか。

限りある現役生活の中で、何よりも「チームに必要とされること」を喜びに感じてきた闘莉王にとって、この残留争いは、最後の大仕事の1つになるのかもしれない。

「それでも人生は続く」と言ったのは、闘莉王を初めてフル代表に招集したオシムさんだったが、ふとその言葉が思い出された。

残留争いは、闘莉王だけの戦いではないが、もうしばらく名古屋から目が離せない。

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FOOTBALL SWITCH ブログ部

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昭和後期生まれ。アラフォーに片足突っ込んでますが、フットサル楽しんでます!2016年7月からこのブログを始めました!サッカーを中心に、「わかりやすく、楽しく」をモットーに書いています!

【初めての観戦シリーズ】
Jリーグは、93年開幕前のプレーシーズンマッチ。浦和レッズ対横浜フリューゲルス。日本代表は、サムライブルーならぬ、サムライレッドの定期日韓戦。(90年初頭の代表ユニは、赤だったのです)。海外の試合は、スタディオ・オリンピコにて、ローマ対レッジーナ。初めてのW杯は、テレビは90年イタリアW杯。この時のコロンビア代表が好きだった。生観戦は02年日韓W杯でイタリア対メキシコ、続けて日本対トルコを観戦。続く、06年もドイツで観戦。18年ロシア行きを企み中。。。

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